僕が携帯電話を持たない訳

 僕が携帯電話を持たない訳は、一言で言えば金がないからだ。今では中学生でも持っている携帯電話、普通に働いていれば、経済的に持てないはずはない・・・・・・・。
 僕が子供の頃は、親父の仕送りがほとんどなくて大変貧しい生活だった。親父は、船を持っていて佐世保で石炭とかサツマイモとかの海上輸送で生活をしていた。保育園の頃は、年に1〜2回帰って来ていたが、小学生の頃になるとほとんど家に帰らなくなると同時に、仕送りもだんだんしなくなった。親父が家に最後に帰って来たのは、小学3年生のときだと記憶している。
母親は、専業主婦だったので大した経済力はなかった。縫製工場に勤めたこともあったら体が丈夫じゃないこともあり長続きはしなかった。小学5年のときに生活保護に入って生活は安定したが貧しさは相変わらずで、僕が親から小遣いをもらったのは、小学3年のときが最後だった。生活が苦しかったので1日10円の小遣いさえもらうことができなかった。

 小学4年のとき、同級生数名との草野球をしようと言う話しになった。僕は、運動神経は鈍かったが運動は嫌いではなかった。それに貧しかったが、おばさんからもらったお古のグローブを持っていた。いざ、野球をしようとするときになって、坂井君が、ボールがなくなったらボールを無くした人の責任じゃなくてみんなで分担しようと言い出した。
ボールの値段が120円くらいで、一人当たりにすると、15円くらいの金額だった。その頃の子供の1日の小遣いは、10〜20円くらいもらっているのが普通だったので、15円の金額なら子供の小遣いでも問題になる金額ではなかったが、僕には、15円のお金がなかった。
僕は、あまり打てないからボールを無くす可能性は低かったが、誰かが、ホームランでも打って草むらにボールが入ったらボールがなくなる可能性はあった。ボールがなくなると決まったわけではないが、ボールがなくなった時のことを考えると、野球をすることができなかった。金はないとは言えないから、野球したくなくなった言って、グローブを友達に貸して家に帰るしかなかった。野球がしたくてたまらなかった。でも15円のお金がなかった。この思いでは今でも忘れることができないし、忘れるべきではないと思っている。小遣いがなかったから友達付き合いもおのずと少なくなった。
 僕は、正月が嫌いだった。お年玉を親戚からもらっても、母親が、親戚の子にお年玉をあげなくてはいけないから、お年玉は、親に取り上げられていた。お年玉は、親戚からもらっているように見えても、実際は、親からもらっているのと変わらないのだということが子供の頃から身にしみてわかっていた。正月だからといって、新しい服を買ってもらえるでもなく、お年玉をもらえるだけでもなく、他の子供たちが楽しい分、僕のとって正月は、惨めなつまらない日だった。
そういう僕にとって子供のころの夢は、「人並みの生活」だった。両親がいて、特別金持ちでなくてもいいからあまりお金の苦労をしなくて良い生活がしたかった。
 小学6年の終わりから新聞配達を始めた。月に3000円くらいだったが、定期的な収入を得られるようになった。配達の部数を増やしたことやインフレで新聞代が上がったこともあり、中学3年の頃は、月に1万円くらい稼ぐようになったいた。冬休みの海苔の手伝いも入れると年間15万円くらい稼いでいた。新聞配達で稼いだ金で自転車を買ったり、姉に小遣いをやったり、学級費を払ったりしていた。高校生の時は、春休みも園芸店でアルバイトをしていたから貧しいながらも自由になるお金ができるようになった。
 自分が働くようになれば、「人並みの生活」ができると思っていた。しかし、それは幻想だった。経理専門学校を卒業して、自動車販売会社に就職した。月給が9万円で、当時としては、平均的な月給だった。同級生たちは、給料のほとんどを車や小遣いにつぎ込んでいい車に乗っている者が多かった。車のローンを毎月3万円づつ払っても4万円以上の小遣いが残る。その頃の若者にとって車はステータスでもあった。
僕はと言えば、9万円の給料で手取りが8万円くらいだったと思う。生活費に5万円とバス代が1万円とスーツや靴を買うための貯金をいれると生活に全く余裕はなく、自動車販売会社に勤めていてもとてもじゃないけど、車を買える状態ではなかった。自分が働くようになっても「人並みの生活」なんて夢のまた夢だった。親の経済力によって子供の生活が全く変わることを再認識させられた。自動車の販売会社ということもあり、車を持たないのは僕だけだった。1年後に会社が合併して会社から銀行などに行かなければならなくなったので車が必要になった。しかたなく中古の安い軽自動車を買った。10万円くらいの車だったのでかなりのボロ車だった。
ある日、会社に来たお客さんを誰かが、佐賀駅まで送る必要があった。僕は手が空いていたので、「僕が送りましょうか」と言ったら、お前のボロ車じゃお客さんに失礼だと笑われた。ボロ車で修理費用もチョコチョコかかったし、車検費用を払う金もなかったので、1年で廃車にして原付バイクを買った。今度車を買うときは、新車を買うと心に決めて・・・・。
バイクは、維持費が安かった。会社には、車を置く場所はあっても、自転車やバイクを置く場所はなかった。人にバイクに乗っているのを見られるのは好きではなかったから、会社の裏地に止めていた。
  最初の1年は、6時〜6時半頃に帰っていたが、会社が合併して職場が変わると状況が一変した。上司が相次いで退職したこともあり、仕事が忙しくなった。残業が増えたので残業手当が増えた。休日出勤も多くなったが、給料が増えるので全く苦痛ではなかった。3年目にパソコンが会社に入った。今からすれば、オモチャのようなパソコンでだが、ある程度操作が出来るようになると、今後コンピュータの時代がくると直感的に思った。プログラムを独学で勉強して給与計算から年末調整までのプログラムを作った。プログラムを作るのは楽しかった。今まで何時間もかかる作業が、数十分でできるようになるのだから・・・。その頃になると、月に2日くらいしか休まなかった。休日出勤手当ては付かなかったが、残業手当は付いたので給料は数段多くなり貯金もそれなりに出来たが、車を買えば、維持費も結構かかるで、他の物を買う余裕がなくなる。車さえあきらめれば、人並みの生活ができるようになっていた。
会社で、行事があって他の場所に集まるときには、少し離れた場所にバイクを止めて歩いて集合場所に歩いていくことも多かった。同年代が良い車を乗り回している時代に自分だけ原付バイクなのは惨めだった。
 町営住宅に20歳から住んでいたが、30代の半ばに、盆栽が盗まれるようになった。犯人は目星が付いていたが、証拠がなかった。置き場所がなくて通路に置いていたので、盗まれるのを防ぐのは不可能だった。盆栽置き場が欲しくて土地を物色したいたら、200mくらい離れたたところに土地が売り出されていた。1995年に土地を買ったが、家を建てる予定はなかった。ただ、自分の土地が持てた意味は大きかった。元々無駄遣いはしない方だったが、家を建てるために今まで以上に節約をするようになった。
 僕は、中学1年の頃から小遣い帳を付けている。最初は、大学ノートの線を引いて入金と出金を付けるだけだったが、簿記をならったこともあり、会社で働くようになった頃は、科目別に分類して収支がわかるようにしていた。パソコンを買ってexcelで入力するようになって集計が格段に簡単になったが、貸借対照表と損益計算書の照合がうまくいかなかった。市販のソフトも試してみたが自分が思うようなソフトがなかったのでACCESSを使って自分で小遣い帳ソフトを作った。このころになると小遣い帳を付けるのが完全に習慣になっていた。
 2000年に家を建てた。本当は、5年後にくらいに家を建てる予定だったが、姉と母に早く建てたいと押し切られて早めに家を建てた。棟上式のときよく家が建ったなぁと感動した。僕にとって家を建てるなんて夢のまた夢のことみたいに考えたていたからだ。喜びと同時に借金を返せなくなる不安もあった。自宅から近いこともあり、家が完成するまで毎日見に言った。新しい家に住むようになってちょっとは金持ちになったような気分になった。ただ、それでも「人並みな生活」ではなかった。都会で普通の会社で働いているのなら車を持たない人も多いだろう。しかし、田舎の自動車販売会社に働いている人間では、車を持っているのは当たり前だった。
家のローンの返済は、予定の2倍の金額を返していった。とにかく借金を少しでも早く返したかった。返済にゆとりが出来たので2004年に軽自動車だけど新車を買った。そしてやっと「人並みの生活」を実感した。
 僕が携帯を買わない理由、それは、最初は節約の意味が大きかった。携帯電話が安くなっても家を建てるため貯金をしなくてはいけなかったし、家を建てた後は、借金を少しでも早く返すために、無駄なものは極力買わないような生活習慣が出来上がっていた。

今では、中学生でも持っているような携帯電話を買えないはずがない。年に2〜3回は携帯を買おうか思うことがある。しかし、貧乏だった昔を忘れないために・・・・たった15円の金がなくて友達と遊べなかった惨めさを忘れないないために携帯電話を買わないのだ。サラリーマンなんて仕事を辞めれば収入は全くなくなってしまうから、いつ昔に逆戻りするかもしれない。誰でも持っている携帯電話を持っていない=すなわち人並みではない状態に置くことによって昔を忘れないようにしている。
ただ、物事の良いか悪いか判断するのは簡単なことではない。「人間万事塞翁が馬」というように何が良くて何が悪いかなど後にならないとわからないものだ。たぶん、僕が貧乏な若い時代をすごしていなかったら、家を建てることはできなかったと思う。