はじめに

名前
 母の戸籍上の名前は、「香月シツヨ」である。最初は、ホームページのタイトルを「香月シツヨ メモリアル写真館」にしていた。写真をアルバムから剥がし、スキャンしていると子供の頃の写真の裏にに「シヅヨ」と表記されていた。親戚のおばさんも、シズヨと言っていたので、たぶん、シヅヨが本当で、戸籍を登録するときに間違えたのだろう。私が小学校低学年の頃は、保護者の欄には、香月シズヨと書いていて、途中から静代に変わった。
戦前の女性の名前は、カタカナの名前が多く、古臭いのを嫌って静代と漢字にしていたのだと思う。
私は、50過ぎまで、母の本名は、「シズヨ」だと思っていた。そう、50年一緒にくらしてきたにもかかわらず自分の母親の本名を知らなかったのだ。母が、50年以上、「静代」という名前を使っていたので、あえてタイトルを静代に変更した。


ホームページ

佐賀で、母が納骨堂を買っていた。しかし、私が死んだら管理をする人がいない。姪や甥に管理を頼むのは、距離的にも無理がある。
葬儀は、兄弟3人特にこだわりはなく、お坊さんは呼ばない小さな家族葬でいいのではないか、墓は、大阪か愛知あたりで樹木葬にすると言うことになりそうだ。
では、どういう葬儀にしようかと思ったときに、このホームページを作ることを思いついた。葬儀と言っても形にこだわる必要はないが、それなりの進行は必要だ。写真中心のホームページを作って、それを元に進行すれば、思い出話に花が咲くだろう。
昔のアルバムは、厚い台紙に、ビニルのカバーを付けて貼り付けたものが普通だった。ビニルでカバーされていても、50年もすれば、色あせたり、しみができたりしていた。まず、スキャンするためにアルバムから剥がさないいけない。ぴったりとくっついていて簡単には剥がれない。途中で破れてしまった写真も何枚かあった。
私の物心付いたころは、父は、佐世保で舟を使った運搬業をしていて家に帰ってくるのは、年に1〜2回くらいだった。父との思い出は、屋台でおでんを食べたことと、蛍を取りに行ったことくらいしかない。父が家に帰ってきたのは、私が小学校3年生のときが最後だと思う。保育園の頃は、普通の生活だった。10円の小遣いをもらって駄菓子屋にお菓子を買いに行った。保育園から帰ると、母は、編み機の使い方を習いに行っていたので、そこに遊びにいた経験がある。父が仕送りをしなくなり、生活は困窮した。母が、幼い私を連れて、知人の家に借金をしに行ったこともあった。小学校5年のとき生活保護になり生活は貧しいながら、安定してきた。私は、小学校5年の終わりの3月から新聞配達を始めた。自分の自由になるお金ができたのは、大きかった。
 私が住んでいたのは、元旅館だった建物で、「開港館」と呼ばれていた。そこに、七世帯くらいが住んでした。水道はなく井戸水だった。手押しポンプが付いているので、風呂水を入れるのは私の仕事だった。
風呂は、石炭をたいて沸かした。石炭に火を点けるために、木材を焚き物にしなければいけない。
入院 母は、高齢になって、6回入院した。とにかく入院するのが大嫌いで、1週間もすると「家に帰る」と、だだをこねる。プリンなどのおやつを食べさせご機嫌をとる。
老人施設 母は、老人施設に入るのも大嫌いだった。2002年ごろ、疲れたから食事の準備もしたくないと老人施設に3日ほど体験入所した。トラブル等もあり、2度と行かないと言っていた。知り合いが、老人施設に入ったと聞いて、かわいそうだとボロボロ涙を流していた。
   1980年〜1989年